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松岡新聞舗とは?

松岡新聞舗の歴史

販売所の沿革

昭和15年3月

松岡浩は学校教員(玉浦小学校)を退職、同年4月1日より新聞販売業を開業しました。
昭和15年当時の販売店は、東京日々新聞(現毎日新聞)佐藤憲吉氏、
読売報知新聞伊藤博夫(のち鎌田喜四郎と改名)、河北新報渡辺藤助氏、
中外商業(現日本経済新聞)八島氏、朝日新聞松岡浩がいずれも専売店でした。

昭和17年

当時の戦時統制令によって副業を営んでおられた渡辺店(河北)、那須店(中外商業)が
専売でないという理由で残る三氏に販売権を委譲され、ここに全国的にできた新聞販売協同組合の設立と発足がなされ、それまで各店での業務が現在の本町にある高総商店を借り一括共同就業、ここに共販制時代に入ることになりました。

  • 戦時統制下 昭和10年代に活躍したサルムソン2A2型本社機

    戦時統制下 昭和10年代に活躍した
    サルムソン2A2型本社機

  • 戦時統制下 「祈武運長久」。本社構内に掲示された日中戦争の特派員と応召社員名。

    戦時統制下 「祈武運長久」。本社構内に
    掲示された日中戦争の特派員と応召社員名。
    看板の上に見えるのは鳩舎(昭和12年)

昭和20年8月

終戦以後も共販制は維持され徐々に社会情勢の落ち着きによって三氏それぞれの店舗にて
営業を再開、その持ち分比によって区域を分割所有することになりました。
その間松岡浩(昭和24年)、佐藤憲吉(時期不明)の死亡によって佐藤よね氏、
鎌田喜四郎氏、松岡カツヨ(昭和25年1月名義変更)となる。

当時復員した佐藤よね氏の次男佐藤憲次郎氏(現こばと幼稚園理事長)、
松岡カツヨ長男松岡謙太郎も準構成員の資格で、またその後佐藤よね氏の女婿の佐藤民夫氏、鎌田喜四郎氏の女婿鎌田作平氏も準構成員の資格で就業しました。

娯楽の少ない時代に子供たちに夢を与えた戦後初の博覧会
「東北こども博覧会」(昭和25年、仙台・榴岡)

昭和30年

河北新報社がセット版を復刊し販売に入ると同時に、
セット販売の主旨を読者に図る目的として、佐藤民夫氏、鎌田作平氏、
松岡謙太郎三氏で岩沼新聞販売株式会社を同年11月に設立、普及に当たりました。

  • アメリカ広報丁と共催の「原子力平和利用博覧会」(昭和31年 仙台アメリカ文化センター)

    アメリカ広報丁と共催の
    「原子力平和利用博覧会」
    (昭和31年 仙台アメリカ文化センター)

  • ユニバーサル4型高速輪転機を増設。これにより戦前の古い輪転機はすべて撤去された(昭和32年)

    ユニバーサル4型高速輪転機を増設。
    これにより戦前の古い輪転機はすべて撤去された(昭和32年)

昭和32年5月

都市専売化の波に当地も専売制に移行、毎日新聞は佐藤民夫氏、
読売新聞は鎌田作平氏、河北新報・朝日新聞は松岡謙太郎となるが単独専売ということで
朝日新聞を佐藤憲次郎氏に譲渡、以後毎日新聞店は佐藤民夫氏から高橋氏、渋谷氏、
小林氏、佐々木氏、平成6年10月より現在の(有)松岡新聞舗での扱いとなる。
朝日新聞店は佐藤憲次郎氏から大穀氏、横関氏。菊池氏、女部田氏、熊谷氏で現在は伊藤昭氏。読売新聞店は鎌田作平氏から村上氏、高野隆雄氏、斎藤正則氏で現在は佐藤聡也氏。

  • 岩沼販売所にて(昭和32年1月25日)

    岩沼販売所にて(昭和32年1月25日)

  • 「平和のための防衛と近代科学博覧会」(昭和34年 仙台・川内)

    「平和のための防衛と近代科学博覧会」
    (昭和34年 仙台・川内)

昭和53年4月

河北新報店は松岡カツヨが昭和52年11月に死亡、
昭和53年4月に松岡謙太郎が、名義人となりました。

昭和55年10月

法人組織には昭和55年10月、資本金100万円で有限会社を設立。
名称を「松岡新聞舗」としています。
この年、新たに西店を開業しました。

岩沼販売所 松岡店

岩沼販売所 松岡店

平成6年10月

本店事務所改装

現在に至る

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